神様はシナリオを書かない

夜凪のろの雑記です。

こがれたい

キャロルをみたから何もかも忘れられるくらいに何かに焦がれたい!やっぱり生きている人に恋したい!!と思って出会い系のアプリを落としたら、なんかそういう感じじゃなかった。カルチャーショック。恋愛=セックスだろ?!みたいなギラギラを感じてすぐにアプリを消した。セックスは愛のための手段や行動であって目的になったら意味がないじゃないか…。そもそも多分誰ともそういうことにならないだろうという憶測が飛び交い、なんだか意気消沈してそのあとはぽつぽつと原稿を書きました。少し進んだ。偉いから褒めて欲しい。元々作っていた設定で進められて良かった。白紙に戻すとなるとまた生まれるまでが大変だから…。今回は存分にキャラクターたちに暴れてもらう予定です。冒頭から大暴れしてて忙しい。でも自分のキャラクターは愛おしいなあ。僕の娘たちよ幸せになっておくれ。幸せを選びとって生き延びておくれ。

話が大幅にずれるけれど、3月9日は私の敬愛する音楽家の誕生日でした。その方は去年の夏に亡くなってしまって、それ以来大切な心のパーツを失くしてしまったみたいな気持ちがずっと続いている。訃報を聴いた瞬間に陥った感情がずっとくっついていて、うまく剥がせない。
曲も本人も好きだったことをちゃんと伝えていないまま亡くなってしまった。
もっと新しい曲が聴きたかったし、伝えたいこともたくさんあったのに、それを伝えることはできなくなってしまった。かなしい。
でもたくさんの曲はまだここにあって、そこにはずっと彼がいるから、好きってことを伝えるために生きたいし、彼が成した表現を私も成したいと強く思う。
穴はまだ埋まらないけれど、私は生きていかなければならないから。
今日も生き延びた。明日はどうなるかわからないから、好きな人たちにちゃんと好きって伝えて生きなくちゃだめだ。それを彼は教えてくれた。

睡眠薬を飲んでからこれを書いてしまったせいでしり切れとんぼですが今日はこれで終わりにします。
明日もみんなが幸せになることを望めますように。

ほっぷすてっぷいんぷっと

多分、多くの作家は、インプットがストックされている。腐らないように冷蔵庫に入れてある。そこから料理を作るみたいに刻んだり焼いたり煮込んだりする。
私は圧倒的に読書量が足りていなくて、分野もかなり偏っているから、最近は何が綺麗な文章なのかも曖昧になってきた。いよいよ本の虫に返り咲くぞと意気込むけれど何を読めばいいのかわからない。何を読めばいいのかわからないことなんて昔はなかったのに。図書館に行って物色すべきだ。 ブランクのせいで材料は腐ってしまったり忘れられてしまったりしている。なので料理出来ない、書けない、のスパイラルに突入してしまっていてやばい。やばいのだ。
やばいのだけどやっぱり本に手が伸びなくて、だからというわけではあんまりなく、なんとなく今必要な気がして「キャロル」を観に行った。
綺麗だった。
最初に車で移動するシーンで、毛皮のコートや頬、手、指がアップになった時の、この目でこの世界をたった今「私が」観ているのだ感が凄かった。カタルシス。
登場人物の命と姿形が可愛くて、美しくて、充足していた。終始幸せに満ち満ちていたわけではないから、余計に幸せがハッキリとみえて、それも良かった。
私にとっての幸せは何なんだろう問題に、キャロルがフィットしてくれた。
ささやかで他愛もないことに幸せを見出せる私は幸せだ。幸せは私が幸せと思ったらそれが全部幸せだ。わかったか。ほかの誰にも定めさせない、私だけの定義だ。
こうやって自由に文字を書くこともその一つだ。何だかよくわからない使命感に襲われて書いていた所もあったけど、やっぱり本質的に、私は書くことが好きだ。書いて生きていきたい。あわよくば書くことで賃金を得たい。それは別にもう隠したり変えようとしたりしなくていいのだと思う。恥ずかしかったり才能や技術や努力に見合わないからって辞める理由にはならない。
書きたいから書くぞ。書くことが好きだから書く。誰のためでもなく私の為に書く。
キャロルはいろんな側面でいろんな問題に触っているはずなので、誰が(どんな立場や視点でも)観ても何かを拾い上げたり手の中におさまったりすると思います。オススメの映画です。

インプットしたら嘘みたいに元気になったので、暫くは映画を借りて図書館に通う人になろうかなと考えています。同時進行で小説も書くぞ。キャロルを観る前は無気力でどうにでもなれと思っていたけど、今は書ける気がする。書く。頑張ります。ほっぷすてっぷいんぷっと!

枯渇

インプットが圧倒的に足りてない。ほんとうにこれじゃだめだ。
小説の種書きを見返して、やっぱりその設定で五月を迎えたいのだけど、難しい。難しいぞ。
しり切れとんぼの小説がメモ帳にバラバラと散らばってて、何一つ集結してない。悲しい。
悲しいのでなんとなく絵を描いたらするするかけて良かった。こういうのはほんとにやってみないとわからないというか、経験がない分、運や体調や心持ちに左右されやすくてだめ。だめなことばかり。だめだめ。
でも今日は昨日より悲観的じゃないからまだマシ。途中で少しストレッチしたのが良かったような気がする。あとチョコを食べ過ぎると持病が悪化するからあなたはチョコをたくさん食べ過ぎてはいけませんよ。
あとなぜかすごくお腹が減る。今日もいっぱい食べた。いっぱいご飯を炊いたからかもしれない。いや、おかしいくらい食べた。美味しかった。何食べたっけ。餃子とか。お米とか。味噌汁とか。とか。

誰かに救われたい。肯定して欲しい。君は生きていて良いんだよと言って欲しい。必要とされたい。寂しいのかもしれない。かといって対人スキルがないから…もう…どうするのよこの子。
同い年の子たちと話すとやっぱりというか当たり前だけど恋愛の話になって、私は暫くはいいやといつも言うんだけれど、今結婚を目指さなくてどうするの的な空気が当たり前にあって怖い。三次元の男の子、地雷です。でもみんなの恋愛はうまくいって欲しいよ。幸せになってね。別々の幸せを見つけようね。
で、私の幸せはなんなんだに陥ってしまう。
幸せになろうとしないことは怠惰だって誰か言ってたけどでもどうしたらいいのよさ。無責任な。
美味しいご飯を食べる幸せとかいい写真が撮れたときの幸せとかメイクがうまくいったときの幸せとかそういうの全部が幸せだよ?結婚だけが幸せみたいに言わないで欲しい。悲しい。
誰にも定められたくない。勝手に定められるくらいならヒントすら与えないようにしたい。

トーストが食べたい。くだものがたべたい。朝ごはんを今食べたい。パンが食べたい。お腹が空いた。ご飯のあとおにぎりを食べたのにも関わらずお腹が空いている。なぜ。いままでこんなことなかったのに。霞を食べて生きてきたのに。
ハーゲンダッツのクッキーアンドクリームが食べたい。レモンアンドクリームでもいい。ストロベリーでもいい。美味しいものが食べたい。お肉が食べたい。そんないっぱいはたべられないだろうな。うん。

女の子みたいなことを書いた気がする。
雑記、毎日書く必要はないのだけど、何事も訓練ということで出来るときはなるべくやりたい。頑張ることが楽しくなるといいな。これからは。

手の中に何もない

なにも読んでいない、何もしていないから。
何もしていないことに慣れてしまった。何もしないのは楽だ。生きている心地があまりしないから、死んでいるのとあまり変わらない。誰かから何かを求められることもなく、自分から何かを求めることもなく、ただ湯水のように娯楽を消費している。
短歌本の作業が終わったので、小説に手をつけると言い出してはや1ヶ月、たぶん百字も書いていない。それはまずいと思ったのでTwitterを禁止した。禁止したのだけどイライラして仕方がなくなった。中毒症状が著しかったので今は一つのアカウントで呟いていいことにして、ミュート機能を駆使して作った機械みたいなTLを眺めている。
何もできない。何もしなくてもお腹は空くからご飯は作る。食べる。
今も緩やかに死に向かっている。みんなそうなんだけど、浪費している。
こんな風にずっと生きていられたらいいなと思う。楽だから。
ずっとずっとただ楽になりたかっただけのような気がする。何を目指してそんなに頑張っていたんだっけ。何になりたかったんだっけ。
私はただ自然の中でご飯を食べながら好きな人たちと笑っていたらそれで良かった。他に大それたものを望む必要がなかった。
ある時好きな人たちが分裂した。二つに別れたから、大勢の人が指す幸せみたいなものを望めなくなった。元々二つにわかれていたものをくっつけようと努力していたが、その甲斐虚しく失敗した。
そうして大勢の人が指す幸せみたいなものを手にすることが怖くなった。元々二つだった命を、一つの家庭にして鍵をかけることがどれだけ難しく恐ろしいことか知った。だからそれを手にすることを諦めた。
それからは自分が幸せだと思うことばかり並べるようになった。大勢の人が望む幸せを嫌悪して突き放し、自分の好きなもので城壁を築いた。手に入れた新しい家は私と妹の城になった。手に入れた城で娯楽の城壁の中で楽しく過ごしている。社会に対して後ろめたさがないこともないけど、でもこの選択を間違ってるとは思っていないし、間違っていると誰かに言われる筋合いもない。
城の中で、娯楽と娯楽の間で、ふと手の中に何もないことに気づく。何も生み出せなくなった指をスワイプさせて娯楽を消費する、その隙間で何もしていない自分に心底嫌気がさす。もうお前の言い訳は聞き飽きた。いくらそれらしい言い訳を並べたところで、書かないのならそれは書けないのと同じことで、書かないことを嘆くことすら、ひたすらに不毛。
そういう毎日です。すごい人の作ったすごいものをみて わあすごいな と言い続けるだけの。
そもそもまだ自分が一次創作できると思ってない。二次創作ならまだしも。

二次創作で、完全にキャラを借りて自己を反映させただけの創作で、さして整理した解釈ももたないまま殴りつけてボコボコにするような文章の中でキャラクターを殺してしまった。私が殺した。すごく気分が良かった。すっきりした。私の創作の中での彼はもうちゃんと生きられる世界線が残っていない。申し訳ない。
希望の話を書かなきゃいけないのに、絶望の中の絶望をバラバラにして並べる行為が楽しかったのが嫌だった。全然私の望んだことじゃなかったはずなのに楽しかった。生き生きしてた。

希望の話を書くと歯の浮くような嘘臭さを孕むのはなんなんだろうね。たぶんちゃんとした希望がどんなもんなのかうまく解釈できていないんだろうね。

今日は割とするするとオートマティスムできたけど、これは単に恨み辛み呪いまじない祈りの類で、思考分類とか整理とかとはまた別じゃないかな。どうだろう。客観視した時に思ったことをまた書きたい。
書かないと生きている意味ないよって言ってくる自分と、生きている意味なんてみんなに平等に一つだってないよと言ってくる自分がいて疲れる。何もしてないのに。

短歌の本のタイトルがじわじわと決まった。
長い文章が体の中で何度も削れて、最後にまんまるい単語になった。エスケープ。
あんまり喋る必要はないのだけど、タイトルについてすこしだけ書く。
いつか還る場所がこの世界以外にあるという確信が私の中にずっとあって、この世界と私の気持ちがずっとずっと摩擦を起こし続けている。摩擦で焼けた皮膚が教えてくれる痛みの理由と意味を、本当は全部知っている。何が必要で、何が不必要で、何が私の本質で、何が世界の本質なのかを、本当は、私は、全部知っている。摩擦を受け入れて火傷をさするだけではなく、エスケープキーを押して元の体だけの私に戻る。私だけの話じゃなく、それはみんなの話でもあって、みんながエスケープするためのポータルとしての、ランドマークとしての本になって欲しくて付けた。
私がハンドルネームに使っている「のろ」と言う名前は尊敬する作曲家の昔の名前(ハンドルネーム)で、彼が付けていた緑色のエスケープキーのピアスから発想を得た。彼の音楽は体を元の姿に戻してくれる。
彼は嘘ばかり書いているとよく言っていたけれど、私がそう思ったことは一度もない。いつも素直すぎるくらい素直で正直な歌が並んでいる。それが重たい鎧みたいなものを剥がしてくれる。その行為がエスケープだったのだと今思う。

誰かの為に何かを書いたりしたことは一度もなく、今回も私は私の魂を救うためだけに短歌詠んでいて、写真に言葉を埋め込んでいる。
その行為が誰かの鎧を剥がせる可能性が少し、本当に少し、3パーセントくらいあるから、本にしたいと思った。形になって欲しいと願った。そうやって作っている。大きな意味はない。でもみんなに読んでほしい。きっときっと良いものになるから。

写真たちが私が書き溜めておいた短歌を受け入れる時と、写真が言葉を渇望している時の二種類があって、それがどっちなのか、そんなことは結果的にどうでも良いことなんだけれど、多分出身地が違うから、見分けてあげたら喜ぶ間と思う。きっと喜ぶ。
文字にも写真にも生まれてきて良かったと思ってほしい。私が生んだとはあんまり思えないけど、でも確かに私がキーを叩いたから。

絶賛作業中だけどそんなことを考えている。言葉について、命について、写真について、表情について、私は全部本当を知っている。

是非見てほしいです。でも少しで良い。大切な人たちに私はここから来たんだということを発表したい。遠い遠い出身地の話をしたい。している。
エスケープ、きっと生きた言葉と写真を届けます。よろしくお願いします。

あなたは誰

何かが噛み合わない。
夜変な時間に寝て何度か目が覚めてしまい、明け方短歌の本のポートレート写真に文字入れをして、夜明けを迎えるのが日課になった。
早朝は作業が捗るけれど、寂しい。みんなはまだ眠って休息を取っている。寝ることができない。惨めな気持ちになる。

友達の夢をよく見るようになった。最近、幼馴染の二人と別々に会った。二人は生き辛そうにしていた。
生き辛そう。生きるのが難しい。いっそ死んでしまったら楽なくらい辛いことがあった。
自分の心の所在地を失い、ふわふわと舞っていた。二人とも、私と同じ空間に居るようで居ない。世界が同期されない。
いつからこんなにずれていたんだろう。互いに何度も違ったアップデートを試みたおかけで、随分と違った生き物になった。
私は私の今のバージョンを気に入っている。前回のバージョンより明るくなったし、なにより人生の主導権が私にあるので生きやすい。
前ほど自分の生い立ちを恨むこともなくなった。よく言えば気にしなくなった、悪く言えば開き直った。
明確な成功なんて程遠く、日々の賃金すら得ていないけれど、短歌は楽しい。コスプレ趣味が転じて良い写真を撮れるようになったのも、なるべくしてなったような気がして、歯車が噛み合ったような感覚。本を読んだ後や、なんらかの刺激を受けた時のぎゅるぎゅると脳が文章を勝手に作り出す時の感覚。
トランスだとかトリップだとかに近い。

トランスやトリップだと思えることが少ないと、人生の充足感は大きく減るから、きっとトランスやトリップ(つまりアドレナリンの放出)を合法的に自分の力で行えるようになるのが大切だと知った。でも鬱の時はそんなこと考えられないし、見るもの全てが怖く、自分以外の全ては敵のように感じられ、あらゆるものが自分を死に至らしめ得る凶器に見える。
トリップもトランスもすごく難しい。トリップとトランスどころか、優しい言葉を受け入れるのすら、鬱の状態では困難である。なんせ信じられるものが少なすぎる。

バージョンアップした友人はそのバージョンどころかその前のバージョンも、最初から全部気に入っていないように見えた。

私はどうしたら良いのかわからなくなった。
死にたいと言われて「行ってしまったら悲しいよ」以外に言える言葉がない。何度も言葉を捏ねて作った粘土細工たちも揃えて横に首を振る。力が足りない。圧倒的に。誰かに手を伸ばせるような力が。
言葉ではもう無理なので、会って話したい。
けれど私はもう生が絶対に尊く、死を選ぶのは愚かな行為とは全く思えない。天寿を全うしたと実感している(ように本人が思っている)なら、選ぶのが死であっても、私は泣くことしかできない。そうやって何人か失って、その度私は愚かにも、何かできることがあったはずだと考えてしまうけれど、大抵の人間が人間に与えられるものなんてない。助けてあげることが前提な人間関係は絶対に上手くいかない。知っている。やっと覚えたことのうちの一つ。

今日は写真を撮ってくる。7、8枚足らないのだけれど、去年一年で行ったポートレート撮影の中から選定して選定してその枚数なので難しい。下手なカメラマンにとって良い写真は偶然の産物だから。
何かコンセプトを決めよう。構図を考えよう。
短歌と写真は楽しい。楽しすぎて周りが見えなくなるくらいには楽しい。トランスしている私をみつけたらこの世界に帰れるように声をかけて欲しい。どちらの世界でもちゃんと地に足つけて歩いていきたい。難しいけれど。

主体性

短歌とポートレイトの本の為の作業をちまちまと進めている。
文フリに何か出すと言いだしてもう2年ほど経っていて、でも踏ん切りがつかなかったのだけど、良いポートレイトのデータがたくさんあるのをみて、短歌が詠めると思えた。
友人Eと妹と私が主な登場人物で、友人Eと私は仮装趣味があるので男の子の格好をしているものもある。それはまた違った方向性の文字の引き出しが開くのでとてもありがたい。
写真を撮ってきて本当によかったと思った。
いつも自分に否定されていた気がする。けれど今は、自分の本当の気持ちを粗末に扱わないでも肯定してくれる人たちの存在を知れたので生きやすくなった。自己表現に対する嫌悪感もだいぶ薄れた。生きやすい。
私は私の価値観で生きたい、感性を殺したくない。

働いていると感性が死んでいく、壊れていく感覚が手に取るようにわかるようになる。今は働いていないので、短歌が詠める。写真が撮れる。でもいつかは自分の為に働いて、自分に贅沢をさせてあげたい。その兼ね合いが難しいと感じる。感性が死なない、壊れない仕事があったら教えて欲しい。できるかわからないけど。